007を憂う①

物心着いた頃、初めて親に連れて行かれた映画が007シリーズの「ゴールドフィンガー」であった自分にとって、このシリーズは筆舌に尽くせぬ思い入れがある。

タキシードを粋に着こなし、美女とともにマティーニを啜る。ロケーションは無論、庶民には縁のない高級カジノ…それだけなら単なる成金親父にすぎないが、彼=ボンドは世界を危機に陥れる悪事を阻止する大役を背負っているのだ。必死な形相など微塵も見せずに、あくまでもスマートに。

近代科学の粋を集めた秘密兵器(ガジェット)で危機一髪を乗り越えるそのサマは、幼心にも強烈な印象を植え付けられたものだ。

内容だけではない。映画にとっては装飾といってもよい音楽やオープニングクレジットもとにかく心に残った。オトナとはこういうことか、と。

この歳になるまで、全編にわたって何度見直したかもはや覚えていない。無論DVDもすべて持っている。"007"を"ゼロゼロセブン"と呼称する輩を、先輩、後輩、社長、親を問わずに

"ダブルオーセブン"だ!

と叱り飛ばし、イギリス本国で定期的に行われているというファンのミーティング会場で発売された"007"ロゴ入りのパンツにすら垂涎の自分が、近作の"007"に違和感を覚えてきた。
一言で言うと

"ボンド(007)映画ではなくなってしまった"のではないか。


なぜこういった感想を持つに至ったのか自分なりに分析してみると、いくつかの要素が浮上してきた。まず

007シリーズに必要不可欠な様式美が薄れつつある。

例えば、MI6セクションにおける直接の上司、「M」とボンドとの関係だ。第20作となる
「DIE ANOTHER DAY」
において、北朝鮮当局に監禁されたボンドは、結果的に人質交換という形で14ヵ月ぶりに釈放されるわけだが、同時に重要人物である、ムーン大佐の腹心ザオを差し出すこととなる。00要員にあってはならない結果とはいえ、ジュディ・デンチ演ずるMはこともなげに
ボンドを厄介者扱いするのだ。

個別の00要員のアイデンティティーはともかく、上司への信頼なくして命を懸けた任務が果たせるわけがない。少なくとも過去の作品においては、幾度も衝突を繰り返しながらも子を見守る親のごとくMはボンドに接してきたはずだ。「LICENCE TO KILL」でも私情に走るボンドから
00の資格を取り上げはしたものの、密かに無事を祈る部分が描かれていたし、「ON HER MAJESTY'S SECRET SERVICE 」においても、任務が一向に進まないボンドがその任務からはずされたことに反発し、辞表を叩きつけるが、あっさり了承…というくだりがある。しかし結果的にはマネー・ペニーの機転によって休暇扱い。Mも彼女に感謝というまさに親子喧嘩そのものだ。

「DIE ANOTHER DAY」におけるMにはそういった情がまず感じられない。内心としては「余計なことを…」という部分は無論あるだろうが、全編にわたってMI6への不信感をひきずる程の非情さが必要なのだろうか。なにもそこまで世情を反映させなくとも…子供もグレるというものだ。この手の作戦遂行型のシリーズは、上司と部下の信頼関係というものが必要不可欠である。この関係を覆すことは
真新しさを狙う上で斬新だと思われるが、最低限のルール…何があっても部下を見捨てない。
という部分は守るべきだろう。もちろん結果論ではなく、内面の表現においてもである。

おまけに不必要なのが、ボンドの拷問シーン。彼も生身の人間であるという部分を表現したかったのかもしれないが、不死身のダンディであるはずのボンドがこともなげに拷問に長期間かけられ、髭が伸び放題のボロボロの囚人服だなんて、従来のファンはがっかりだろう。しかもそれをオープニングクレジットのモチーフにされても、見ている方はつらいだけだ。007シリーズというのは単なるアクション映画ではないはずだ。
様式美がシリーズの長命、敷いては固定ファンをつなぎ止めていることは言うまでもない。


次回もひきつづき、"007シリーズ"の変遷を否定ベースで語っていく所存である。
運よくこのブログを目にされた方は、遠慮なくご意見を。




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