道 その2

人間という存在の“悲しさ”を表した映画として名高い「道」。

ザンパノを人間として許せないという輩は多いと思うが、自己愛ゆえに他人を不幸にするという行為は、ある意味生物として当然の行為であると思われる。

しかし、その行為を嫌悪の対象として認識できるのは人間だけであり、だからこそその行為を避けたいと思えるのだろう。

現在のように食うに事欠かない時代とは違い、明日の食費を稼ぐことに必死な時代に生まれたとしたら、自分はザンパノのような行動をするだろうか。自らに説いても答えは出てこない。

生きていくために他人を犠牲にせざるをえない事実は、ある意味現代にもあてはまる。
違う点は、死に至る過程が緩やかか速やかかに過ぎないのかもしれない。

“生”というものには元来貪欲さは必要不可欠であろう。ザンパノは気のふれたジェルソミーナを捨てたわけだが、彼がもしそのときジェルソミーナを自己犠牲を以ってしてまで連れていったとしたら、彼は早々に命を失うことになったかもしれない。ザンパノは“自己犠牲”よりも“自己愛”を選択したが、誰が彼を責めることができるだろう。

必死にザンパノの後を追い、彼を信頼し続けたジェルソミーナ。彼の行為を許せず自己崩壊した後、捨てられ、彷徨い、命果てたジェルソミーナ。哀れとしかいいようがない。
彼は彼女を利用し、役に立たなくなった時点で捨てた。

ジェルソミーナの命尽きたことを知って号泣するザンパノ。

彼の涙は何だったのだろう。

自らの行為に対する後悔の涙なのか、失った彼女への憐憫の涙なのか。

どちらだとしても、自らの行為を悔うザンパノは、その瞬間は“人間”であったと言えるのではないだろうか。
後悔し、自らと向き合うことが出来るのは人間だけである。

そして、損得を捨て誰かを幸せにしようと思い、実行できるのも人間だけではないのか。

人間が人間として意味を持って生まれてきたとするならば、それはその人間が自分以外の人間を何人、幸せにできるかしかないと自分は思う。その方法は何でもいい。

しかし、元来“人”は皆ザンパノなのだ。それを責めることはできない。ただ嫌悪は忘れたくない。そんな人間にならないよう自分に言い聞かせるために。
道 [DVD]

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック